エッセイ
手をぐっと握れば甲の皺は隠される。 試みに開いてみれば、 たちまち皺に覆われた手へと豹変した。 血管が浮き出、ところどころにシミ。 短い指、みっともなく不格好な手に苦笑する。 泣きながら、抱かれた母の乳房を求めた手。 息絶え床に横たわる父の、う…
父の享年は68歳だった。それよりすでに15年長く生きている。 どうやら平均寿命にも達した。さて、あと何年? 鏡に映る体はくの字、脚はOの字。 もう治しようがないですね─きっぱりと医者 診察券9枚。内科、整形外科、泌尿器科、皮膚科、 歯科、眼科、…
「母はもう生きるのを諦めたんじゃないかしら。 病室のベッド脇に置いてあるゴミ入れには、薬がそのまま捨てられているのよ。 どうしてって尋ねてみても、笑うだけで何にも答えないの」 ──妻は俯き、涙の落ちるままにした。 義母は末期の大腸がんだった。 そ…
50に近い年だったと思う。 自治会のソフトボールチームに駆り出されたことがある。 本格的な野球経験があったわけではないが、 野球少年だったし、中学では1年生の1学期まで野球部に入っていた。 その程度の経験だったが、それでも社会人になってからも 会社…
「父は仕事が忙しく、休日は疲れているのか、 よく寝ていました。 ところが、2か月前から休日の夕飯を 調理してくれるようになりました。 キッチンに立つ父の姿を初めて見た時には、 『明日は大雪が降るのではないか』と 思うほど、驚きました。 父は買い物…
目覚め、スマホを手にするとLINEが着信になっていた。 誰が、何事だろう。 開いてみると、友人が一本の動画を送っていた。 「これを見よ」とだけで、何のコメントもつけていない。 その動画の人物には見覚えがある。 アラン・ドロンだ。 彼は昨年8月8…
愛おしい姪が2人いる。 姪と言っても小さな子ではない。2人とも60後半、 お婆さんと呼ばれてもおかしくない年だ。 一人が長姉の一人娘。僕が高校1年か2年の頃だったと思う。 姉がその幼子を連れ遊びにやって来た。 この姉が僕を母親のように可愛がって…
嫉妬する。 地下鉄で乗り合わせた、おそらく何かの運動部の学生だろう。 どやどやと乗り込んでくるなり、「ちぇっ」と舌打ちしたくなった。 別に彼らのマナーがどうだと問うているのではない。 彼らの体つきに対してなのである。 彼らのすごい体つきに対する…
末っ子故だったのか、父から大変にかわいがられた。 父は登山やハイキングが好きで、いつも山登りに、キャンプにと連れて行った。 その帰り道、海水浴場で遊んだこともある。 小学3、4年生ごろまでの話である。 僕自身もそうだったが、男の子は友人との間で…
「腐れ縁」という。僕にもそう言えるような人が一人だけいた。 年齢は17歳上、親子というほどではないが、年の離れた兄といったところか。 社員が20人足らずの小さな会社のオーナー社長だった。 少々失礼な言い方ながら、2人はまさに「腐れ縁」、そんな…
平成10年4月8日だから、もう27年前になる。享年89歳だった。 久しく墓参りもしていないが、我が家の簡素な祭壇にいて マリア像の横で柔和で優し気な笑顔を見せてくれている。 母との幼き日々の思い出は多くない。 いろいろとあったに違いないのだろうが…
年を取ると筋肉の衰えなんてあっという間だ。 そうとあって、かかりつけ医からも「30分以上のウオーキングを週3回以上」 などとアドバイスされてもいる。 もう一つ、年寄りにとって運動と言えばラジオ体操がすぐに思い浮かぶ。 適度に体を動かせるから小…
妻は4人姉妹のいちばん下である。 彼女を挟んで兄、弟がいたのだが2人はすでに亡く、対する4人の姉妹たちは、 長姉が妻よりちょうどひと回り、12歳上の89歳であり、 皆高齢ながら身を病み、心を塞ぐことなく元気だ。 その長姉が、佐世保から妹のいる…
誰が言い出したのか知らないが、 「35歳限界説」というものがあるらしい。 転職も結婚も、積み重ねてきた経験というプラス要因を、 年齢というマイナス要因が上回る、 その分岐点が35歳というのだ。 この説に取りつかれたような30代前半の 男性公務員の話が…
初恋の女性は、確かにあの人だった。 中学の3年間、一度も同じクラスになったことはなく、 廊下ですれ違えば、目をそらし、うつむき加減に通り過ぎるだけ。 話しかけることもできなかったし、 もちろん二人きりで顔を見ながら話したこともなかった。 遠くか…
足の指を見ると、爪が内側、肉の部分にぐいと食い込んでいる。 巻き爪だ。特に親指がひどい。幸い痛みとか、化膿したりといった、 そんなことはないのだがすごく痛々しく、見た目も悪い。 ちょっと調べてみたら、そうなる原因は間違った爪切り=深爪、 また…
これらのレコードやCDを持ち主亡き後、妻や娘たちは聞いてくれるだろうか。 ほとんどがビートルズ、あるいはアメリカンポップスといった洋楽だ。 邦楽といえば、わずかにフォークソングのカセットテープ10本セットものがある。 今のうちに整理、つまり終…
この川沿いの道を歩くのは久しぶりのこと。 自宅のすぐ近く、ウオーキングコースとして馴染んだ道だ。 ただ、健康のためのウオーキングとはいえ、 あの酷暑の中を歩く気には到底なれなかった。 どうやら10月ともなり、さすがに暑さは和らぎ涼風が混じって…
この病棟には、ここ10年間で11度目だ。 最初は前立腺がん、その1年後からは4度の膀胱がんに見舞われた。 がん発生からすでにそれなりの年月が経っているから、 医師は「がん再発はほぼ大丈夫だろう」と言ってくれてはいる。 だが、このところは泌尿器に起因…
「親友はいるか」そう尋ねられれば、即座には答えられない。 いったいどのような存在の友を親友と呼ぶのか。 その定義によって、答えが多少違ってくるように思う。 国語辞典で確かめてみる。 「親友」=心から打ち解けた親しい友人。 その横にもう一つ。「心…
いきなり、「うぐっ」ときて、口をこじ開けるようにばっと飛び出してきた。 そして、白っぽい体をくにゅくにゅとくねらせ、教室の床を這いずり回っている。 「こんにちは、回虫君」。 クラスメイトのほとんどが、回虫やサナダムシといった〝虫持ち〟だったか…
麦藁帽の隙間から汗が額から頬へと伝い、かすかな風にシャツがそよいでいた。 そのシャツは確か、開襟シャツ風なものだったと思うが、 その時僕は小学三年生だったか、四年生だったか。 何せ70年ほども前の話だ、定かではない。 水色に白の水玉模様、これは…
スマホの電話帳をめくってみた。 42年間携わってきた仕事に関連する会社、 あるいはそれに伴う人たちの名がいまだにずらり並んでいる。 80歳になった3年前に第一線を退いたから、 これらの電話番号を必要とすることはもうないはずなのだが、 何とも未練がま…
昼食を済ませたら、とたんに眠くなる。 それで、枕と本を持って畳に横になり、本をパラパラとしたら、 たちまち寝入ってしまった。昼寝する時の読書はまさに睡眠薬となるのだ。 「あーよく寝た」腕時計は4時ちょっと前。 横になったのが2時半頃だったから、1…
大学での運動生理学の講義で担任教授がこんな話をされた。 「女性は骨格も筋肉も男性の8割しかない。よって女性はか弱く、 いたわり、守ってやらねばならない存在。世の厳しさに晒させたり、 重い荷物を持たせるなぞ言語道断。男性諸君はよくよく心すべし」…
このクマゼミはもう鳴かない。飛ぶこともない。 地上に出てきて、どのくらいの寿命であったろうか。 1週間ほど? 普通そのように言われている。 いかにも短命に思えるのだが、実際はそうでもない。 幼虫の時は、土の中で約7年、 環境が良ければそれ以上過…
広島、長崎で被爆し、被爆者健康手帳を所持する人が 初めて10万人を下回り9万9130人になったという。 加えて、その平均年齢は前年より0.55歳上がり、86.13歳と高齢化している。 つまり、被爆体験を語り継ぐ人は減り、高齢化しているということだ。 このまま…
軍曹殿はますます“鬼”になっておられる。 「はい、これ」「はい、あれ」と次々に新しい任務を与えられる“老”二等兵。 勝手が分からず右往左往させられる。 80歳で最前線での戦いを終え、今は兵舎でぐずぐずと暮らす身だ。 そうなった二等兵をつかまえ軍曹殿…
後期高齢者ともなって、肩肘張ったところでしようがない。 たとえば夫婦の間において「夫唱婦随」、 妻は夫の意見に従うべきだと威丈高に言ってみても、 現実にはそのように暮らしていくのは難しい。 結婚以来、衣食住すべてにおいて妻任せだった。 そのせい…
新聞の投書欄に拾った話──。 14歳の女子中学生が、「今の時代、つまらない」と嘆き、 そして、こう叫んでいる。 「昭和に生まれたかった!」 「昭和」と言っても100年ある。 戦争に苦しんだ時代、食うや食わずの戦後の復興期、 それらを乗り越えて享受…