妻は4人姉妹のいちばん下である。
彼女を挟んで兄、弟がいたのだが2人はすでに亡く、対する4人の姉妹たちは、
長姉が妻よりちょうどひと回り、12歳上の89歳であり、
皆高齢ながら身を病み、心を塞ぐことなく元気だ。
その長姉が、佐世保から妹のいる福岡の我が家へ3泊4日でやってきた。
電話ではちょいちょい何やかやと話し込んでいるが、
こうやって顔を合わせるのは随分と久しぶりのことだった。
義兄が介護施設に入所したため、家を空けられる時間が出来た姉は、
妹の顔を見たくなったようだ。
妻もまた何日も前から料理の材料を買い出しに行ったり、
また部屋を掃除し寝具を用意したりと弾む心中そのままに忙しく待ちわびていた。
やはり同じ血を持つ姉妹である。
この二人は饒舌、つまりおしゃべり好きなところがとても似ている。
しかもその声が大きい。とあって、妻と2人暮らしの我が家がひどく賑やかになった。
特に夕食時、そして箸を置いた後も話が弾むこと弾むこと。
久しぶりに会ったという心の高ぶりが
本来のおしゃべり好きを一層弾ませたからに違いない。
口を挟むことなんか出来はしない。そっと席を外した。
それと、2人ともその年齢にしたら大変元気だ。
姉は右脚を少しばかり痛め杖をついてはいるが、日常生活にさほどの支障はなく、
こうやってバスで2時間かけて佐世保─福岡を一人で行き来出来るほどなのである。
その証拠と言ったら何だが、90歳を目前にした人とは思えぬほどの食欲だ。
それも鶏のから揚げが大好物なのをはじめ肉類を好んで食べる。
妻にすれば承知のことであり、夕食にはから揚げはもちろんのこと、
牛のタタキも添えていた。
おしゃべり後の跡片付けも僕が手伝うスキはない。
2人して食器の音に負けぬほどぺちゃくちゃしながら済ませていた。
風呂も一緒だった。
2人では狭すぎるのではないかと思える浴室でもまた話は尽きなかったに違いない。
風呂から上がってきた姉が
「ああ楽しい。ねえねえ、もっと居てもいい?」と僕に投げる。
僕は即座に「いいですよ。なんなら一緒に暮らしますか」と返した。
すると妻は「だめだめ、早く帰ってちょうだい」そう言いつつ満面の笑みであった。
この姉妹の喜びは僕の和みでもあったが、ただ少しばかりの寂しさを誘った。
僕には8歳違いの姉がいる。男4人、女2人の兄弟姉妹のうち
すでに4人が他界しており、残っているのはこの姉と僕だけだ。
末っ子の僕にとって、まさに母親代わりとも言えるほど
小さい頃からかわいがってもらった、かけがえのない恩人とも言える姉なのである。
ただ少々気がかりなのは、姉は生まれ、住み続けてきた地・長崎で
特別養護老人ホームに入所しており、加えて長年のパーキンソン病によって
今はもう話すことも叶わなくなっているのだ。
時々、姉の一人娘、つまり姪に電話で状況を聞いてはいるが、
一年ほども見舞っていない。
なんて恩知らずな奴なんだ──自らをそう罵るしかなかった。
我が家を訪れた義姉と妻の喜びようが、背を押した。すぐに姪に電話する。
老人ホームの面会日は決められているから、こちらの都合と合うかどうか。
姪は「ホームにその日面会可能かどうか尋ねてみましょう」と言ってくれ、
ほどなく「OKでした。母にも伝えておきましたよ。大変嬉しそうでした。
お待ちしていますね」との返事であった。
福岡から長崎まで高速バスで2時間半ほどかかる。
ホームのエントランスで姪と落ち合い、姉の居室へ向かった。
姉は車いすに座って待っていた。
ただ、目はつぶっているし、顔も何だかしかめたように見える。
1年前もこうだったろうか。
姪が「ほれほれ、叔父さんが来てくれたよ。目を開けてみて……」
やさしく背をポンポンと叩く。
すると、うっすらと目が開いた。しかめたような顔も少し緩んだ。
「ごめん、ごめん。随分来なかったからね」僕はそう言いながら姉の手を握りしめた。
最初はほとんど力のなかった姉の手に次第に力が入ってきた。
「よく来てくれたね。元気だった?」手の力加減が言葉代わりの返事だった。
僕も力を入れる。
その手を見ればマニュキュアをしているではないか。相変わらずお洒落だな。
シャツも年が明ければすぐに92歳になる
お婆さんが着るものとはとても思えないほど洒落ている。
そして、話しかける。
「あの時こんなことがあったよね。覚えている?」
幼少時のことを尋ねれば、かすかに頭を動かす。口が少し開く。
姪が「しっかり覚えているそうですよ」と間に入ってくれる。
突然、涙がぽとぽと落ちてきた。言葉に詰まる。
母さん? いや姉がこちらをじっと見ている。
一瞬、幼き日のようにその胸に抱かれわあわあと泣きたいと思った。
また手を握りしめる。握り返してくる手に涙はとめどない。ハンカチはどこだったか。
ホームの面会時間はおよそ30分と決められている。もう部屋を出なければならない。
姉は疲れたようで車いすからベッドに移った。
「食事の量が随分減ってきた。必然的に衰えが顕著になってきている」
姪は医者からそう聞かされているという。
「また来るからね。元気にしとってね」母親と見紛うその頬をそっとなでた。
笑顔ながらに「バイバイ」と手を振れば、
姉は布団からもぞもぞと手を出し、振り返してくる。
その振る手が思いのほか力強い。まだまだそんな力が残っているじゃないか。
拭ったばかりの涙がまた落ちてきそうになる。
帰りのバスの中。ぺっそりとなってしまったお尻が、
柔らかなシートにさえ痛いのをこらえ我が手を見つめる。
甲にはぐしゃぐしゃと皺がより、その中に血管が浮き出ている。
まさに83歳の爺さんの手である。姉の手の方がよほど若かったではないか。
憧れのスターと握手した若い女性がその手を洗いたがらないように、
この手も洗わずにおこうか。そんな他愛ない思いに心中苦笑いする。
陽はすっかり落ち、窓越しに黄金色をした「スーパームーン」が
バスの動きに従い右へ左へと行き来する。
姉もまた夜空に輝くこの満月を眺めているだろうか。
残り少なくなってはいるが僕の生命力でよければ、
どうぞ吸い取ってホームの窓からこの月を眺めてごらんよ。
心和み またある時は涙流るる──散り散りたる姉への思慕もまた行き来する。